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スレッド つぶやき

【ふわっち】ぬん

75/101頁 (2000件)
1463: 2023/09/04 17:59
1462
この子ラジオ配信で谷間とか露出配信してないからスレ違いだと思うよ
もーこないでね

1464: 2023/09/07 14:45 1
ここのリスナー会話成り立たない奴多すぎ

1465: 2023/09/07 17:02 1
他枠の話し持ち込むアホリスナー気持ち悪い

1466: 2023/09/07 17:09
1464
1465
同感

1467: 2023/09/07 17:55
老害

1468: 2023/09/07 18:22
CMソングの日(9月7日 記念日)

1951年(昭和26年)のこの日、初めてCMソングを使ったラジオCMが中部日本放送(CBC)・新日本放送(NJB)でオンエアされた。

1469: 2023/09/07 18:23
小西六写真工業株式会社(現:コニカミノルタ株式会社)の「さくらフイルム」のCMだったが、歌の中に社名・商品名は入っていなかった。

民間ラジオ放送がスタートしたのが同年9月1日。同社は民放第一声で新番組をはじめたいという想いから30分の番組枠を購入。人気作詞・作曲家の三木鶏郎(みき とりろう、1914〜1994年)に委嘱した。

1470: 2023/09/07 18:23
これに対して三木は、NHKではできないものは何かと考え、コマーシャルソングを提案。あえて、会社名や製品名を出さない日本で初めてのCMソング「ボクはアマチュアカメラマン」が誕生した。

1471: 2023/09/07 18:23
歌は歌手・ウクレレ奏者の灰田勝彦(はいだ かつひこ、1911〜1982年)が担当した。灰田は初期のNHK紅白歌合戦の常連大物歌手の一人でもあり、計6回出場している。

関連する記念日として、民間ラジオ放送がスタートした9月1日は「民放ラジオ放送開始記念日」、日本初のテレビCMが放送された8月28日は「テレビCMの日」となっている。

1472: 2023/09/07 18:24
9月7日は「CMソングの日」です。1951(昭和26)年に、日本ではじめてCMソングを使ったラジオCMが放送された出来事にちなんでいます。
実際にオンエアされた楽曲は、灰田勝彦氏が歌う『僕はアマチュアカメラマン』。小西六(現:コニカミノルタ株式会社)の商品「さくらフイルム」の宣伝用CMとして作られた楽曲ですが、社名・商品名をあえて入れない歌詞でオンエアされました。
「CMソングの日」に特化したイベントやキャンペーンは少ないものの、テレビやラジオといったCMに着目することで、記念日に関連する広報PR活動につなげられるでしょう。

1473: 2023/09/07 18:26 1
枠主がリスナー野放しにしてるから老害が集まる。枠主の責任

1474: 2023/09/07 19:05
1473
こいつのトークつまらねぇもん

1475: 2023/09/07 19:23
旧石器時代
編集
北海道には数万年前の氷期にシベリアからマンモスやオオツノシカなどの大型哺乳動物を追いかけて、陸橋となった宗谷海峡を人類が渡ってきたとされる。約12,000年から13,000年前(-8000年から-9000年)には、氷河が後退し温暖となってからは本州からも渡来したようである。
道内各地で旧石器時代の発掘調査は、群馬県の岩宿遺跡で旧石器が発見されたのをきっかけに行われるようになった。それらの遺跡は約2万年前から1万3000年前の間、つまり後期旧石器時代と推定されている。現在のところ最も古い遺跡は、千歳市祝梅(しゅくばい)三角山遺跡と考えられている。この遺跡から採取した炭化材を放射性炭素年代測定法では21450±750年BPであった。出土した石器類は、ナイフ形石器・尖頭器・削器・石核などである。これらの石器の原材料となった黒曜石の産地は「十勝石」の名で親しまれている白滝村が代表的である。他には、置戸・十勝三股・赤井川などがある[28]。

1476: 2023/09/07 19:24
縄文期、飛鳥時代
編集
縄文時代に入ると、渡島半島・函館市の女名沢遺跡など、本州からの亀ヶ岡文化の影響が見られるようになる。
縄文時代後期の周堤墓は北海道にしか見られず、特に石狩低地帯に集中している。最も大きいものは千歳市郊外にあるキウス周堤墓群で、知床半島の付け根部にある斜里町でも朱円遺跡、芦別市野花南、標津町伊茶仁(いちゃに)などで発見されている。
北海道ではストーンサークルが多く発掘され考古学上議論を呼んでいる。渡島管内森町の鷲ノ木遺跡、後志管内小樽市の忍路環状列石・地鎮山環状列石、余市町の西崎山環状列石、石狩地方では空知管内深川市の音江環状列石、旭川市の神居古潭ストーンサークルなど。

1477: 2023/09/07 19:25
続縄文文化
本州以南は多数の渡来人(弥生文化の担い手)が進出、弥生時代に移行するが、北海道には弥生文化(水稲耕作)が伝播せず、続縄文文化が展開した(本州の弥生・古墳時代に並行する続縄文時代[注釈 13]は、紀元前2世紀から8世紀の奈良時代ごろまで続いた)。この文化は、北は樺太南端部、東は国後島・択捉島、南は宮城県北部から新潟県にまで及んでいる。時期のはじめの土器は東北北部の土器(亀ヶ岡式土器)の影響が及んだ恵山式土器で紀元前2世紀から3世紀までを恵山文化と呼ぶ。この文化と弥生文化との交流を示す鉄器や碧玉製の管玉が見つかっている。また、この文化の影響が道央部に及んで江別式土器が出現する。この土器は後北式土器[注釈 14] とも呼ばれている。江別式土器を特徴とする江別文化は紀元前1世紀から7世紀ごろまでで、サケ・マスの漁撈生業を中心とした狩猟・採集経済である。この文化の遺跡からソバの花粉や緑豆の種子が検出されており、食用植物が栽培されていたと考えられる[30][31]。

1478: 2023/09/07 19:25
擦文文化
つづいて、7世紀後半より土師器の影響を受けて縄文がなくなり、木片の刷毛で擦ったような文様の擦文式土器を特徴とする擦文時代となって、この文化を8世紀までを前期、9世紀 - 10世紀を中期、12世紀ごろまでを後期の三期に区分する。この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって、12世紀ごろには移入品の鉄器を使用し、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟した。
オホーツク文化期
擦文文化が営まれていたころ、北海道東部のオホーツク海沿岸には、北の樺太方面から漁業と海獣狩猟を生業とするオホーツク文化を営む人々が移住したが、アイヌ文化が成熟したころに姿を消した。アイヌと完全に同化したか、アイヌに追われたものと考えられる。この古代文化は、3世紀から13世紀に樺太、北海道のオホーツク海沿岸、千島列島に展開された。うち北海道に分布するこの文化の遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推測されている。

1479: 2023/09/07 19:25
アイヌ文化
擦文文化は、オホーツク文化や本州以南の日本文化の影響を受けてアイヌ文化へと移行した。イナウや捧酒箸を用いた神事、イオマンテ、アットゥシの着用などの「いわゆるアイヌ文化」の成立時期は日本本土における鎌倉時代の事とされる。アイヌ文化期は明治期に和人の進出が本格化するまで続いた。

1480: 2023/09/07 19:30
和人進出(奈良時代 - 鎌倉時代)
編集
古くは『日本書紀』に渡島(わたりしま)として登場している。事実かどうかは諸説あるが、『日本書紀』には、斉明天皇が阿倍比羅夫に命じ、蝦夷を征するため、渡島へ1万の軍勢を送ったとある。比羅夫は蝦夷を下し、さらに降伏した蝦夷とともに粛慎なる異民族を討ち、捕虜を連れ帰ったという[32]。
奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行なった。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていた。恐らく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられている。
中世以降、北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷が島、蝦夷地(えぞち)など様々に呼ばれた。古代の蝦夷(えみし)は農耕も生活の柱としていたが、次第に狩猟・漁業に特化し、鉄などを日本人(和人)の交易で得るようになっていった。
また鎌倉時代以降になると、後の松前藩や和人地の基礎となった渡党の活動が見られるようになる。

1481: 2023/09/07 19:30
松前藩(室町時代 - 江戸時代)
編集
松前崇広は、江戸時代末期の大名。蝦夷松前藩の12代藩主。
室町時代には、渡島半島南端(後の和人地)に和人、渡党、アイヌが居住し、豪族が館を構えていた[33]。和人の築いた道南十二館のひとつである勝山館跡では和人とアイヌの混住が考古学的にも確認されている[34]。当地に割拠していた館主(たてぬし)らは安東氏と被官関係を結んでおり、かれらが北海道に渡った時期は不明であるが、その多くは鎌倉時代に津軽や糠部の北条氏所領の代官層であった侍の子孫とも考えられている[35]。室町・戦国期には本土から和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した『新羅之記録』(寛永20年(1643年)成立)があり、同書に拠れば康正3年/長禄元年(1457年)に起きたコシャマインの戦いで、甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)。

1482: 2023/09/07 19:31
松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌはシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いで蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された。天明4年(1784年)からは蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。
江戸時代後期に、ロシアがシベリアから領土を広げつつ日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本に北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた(ゴローニン事件)。ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。

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